私がラジオジプシーだったころ

アメリカ文学とか映画とか。

東京マジックアワー

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パシフィック・リム』の鑑賞を終えてTOHOシネマズを出たのは午後三時過ぎだった。

実は先日、妻とともに新宿のバルト9にて観たばかりなのだけれど、あまりの格好良さにもう一度、しかもより高品質な3Dにて観たいと思いひとり六本木までやってきたのだった。

ここのスクリーンにはSONYの3Dシステムが備えられており、2眼のレンズで偏光された画をLR同時に投射するため、ちらつきが少なくて色再現性も良い映像が観られる。あの忌まわしいメガネはかけないといけないけれど、シャッター方式のものと比べるとかなり軽いのでまだマシだ。

 

結果的に、今回も素晴らしい二時間を過ごすことができた。監督のギレルモ・デル・トロのオタクっぷり、怪獣への愛には頭が上がらない。(この映画のPRのために来日した際、お台場のガンダムを見て「ファット オタク ヘブン・・・」と涙を流した、と言われているけど、いやそれって「What otaku heaven...」なんじゃないのか。)

 

終演後、六本木ヒルズを出て近くの青山ブックセンターに入る。以前から気になっていたヘミングウェイの短編集を買い、特に予定もないのでちょっと散歩でもしようと歩くことにした。

 

外苑東通りを青山方面へと歩いていると、僕の前を中学生ぐらいの女の子と小学生ぐらいの男の子が並んで歩いていた。姉弟のようだ。男の子のほうは暑い暑いとぶぅぶぅ言い、女の子のほうはその弟の手を引っ張って気丈に歩いている。

こういう姿を見ると、二十年前の僕と姉を思い出してしまう。

 

ある土曜日、昼食を求めて近所のスーパーに行った。二人とも大好きだったインスタント麺を手に持ってレジに進んだまでは良かったのだけれど、その段階になって所持金が5円ほど足りないことが分かった。レジ係のおばさんも困ってしまったし、なにより小学生の姉弟にはどうすることもできない。恥ずかしいやら悲しいやら、どうしようとオロオロするばかりだ。家まで走ってお金を持ってこようかと話していたそのとき、僕たちの前で会計を済ませた一人のおじさんが自分の財布から十円玉を取り出してこう言った。

 

「ほら、これを使いな。なにも気にしなくていいし、返さなくていい。」

 

我らがヘミングウェイはここにいたのだ。僕たちは丁寧にお礼を言い、レジ係のおばさんもそのおじさんにお礼を言った。

こうして僕たちは世の中にある優しさを学ぶことができたのだ。

 

そんなことを思い出しながら、僕は二人を追い越す間際、心のなかでその姉弟にエールを送った。

「いつかどこかで、君たちの前にもヘミングウェイが現れんことを。」

 

青山通りに出たところで左に曲がり、渋谷方面に向かって歩き出す。ホンダのショールームの向かいにスターバックスを見つけ、少しのあいだ休憩する。先ほど買ったばかりのヘミングウェイの短編集を開くものの、一時間ほど読み進めたところで冷房がこたえてきたので店を出る。少し歩いて外苑の緑の中に入り、霞ヶ丘町から坂道を下って外苑西通りに出る。東から西に移動していることが分かる。

 

そこから千駄ヶ谷小学校前の坂道を上って原宿駅に出る。人混みを早々に逃れて井の頭通りを西に向かう。仙人のように髭を伸ばしたホームレスの前を通り過ぎて坂道を下る。こうやって歩くとよく分かるけれど、東京というところは本当に起伏が多いものだ。

 

井の頭通りと山手通りとの交差点にかかる立体歩道を上ると、立ち止まって空を眺めているひとりの女の子を見かけた。黒のショートパンツに白のTシャツの袖をまくり、『CANON』と印されたストラップをつけた一眼レフカメラを持っている。黒い髪は肩のあたりで切り揃えられていて、背は僕よりも少し高い。

同じ方向を眺めると、もうすぐ地平線の下に隠れようとしている太陽に染まった空があった。もうマジックアワーと呼ばれる時間だ。

 

ああ、いいなぁと思って携帯電話のカメラで撮影を始めてみたものの、一枚目を撮ったところで画面が突然暗転した。もう使い始めて二年が過ぎる我がBlackberryは相当にガタがきていて、カメラの消費電力にバッテリーが耐えられないことがあるのだ。

 

「分厚い本をお持ちですね。」

 

その女の子に突然話しかけられた僕は、危うく携帯電話を井の頭通りに落とすところだった。本当に死なせてしまったら洒落にならない。

 

「ええ、ヘミングウェイの短編集なんです。」

「ヘミングウェイ、お好きなんですか?」

「いや、実はずっと読みたいと思っていたものの、これが初めてなんです。翻訳者が柴田元幸さんだったから、安心して買ったんです。この人の訳した物語にがっかりさせられたことはないから。」

「信頼しているんですね。」

「ええ。ハードカバーの本は高価だから、信頼できることは大切です。」

 

僕も彼女のカメラを見て思ったことを口に出す。

 

「写真を撮られるんですね。」

「実は専門学校で映画を勉強しているんですが、講義の課題で写真を撮って提出しないといけなくて。『マジックアワー』がテーマなんです。」

「なるほど、それならいまここはぴったりの時間と場所だ。もう数分もすればもっとよくなりますよね。」

「はい、だから待っているんです。ヘミングウェイならサバンナに出掛けるのかもしれないけれど、ここは東京だから。」

 

あまり邪魔をしてもよくないし、そろそろ冷房が恋しくなってきたこともあって、先の代々木上原駅を目指してその場を離れることにした。

 

「じゃあ僕はこれで。暑いけれど、頑張って下さい。」

 

 

井の頭通りの坂を上って振り向いたときには、もうマジックアワーは終わっていた。